時の地層
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誰が今の日本を予測していただろう。1950-60年代の高度経済成長で日本は先進国の仲間入りを果たしたが、同時に過疎と過密の課題も植え付けられた。山間部の若者は大都市や工業地帯などを目指して、地域から流出していった。山陰地方のある町では人口が当時をピークに、現在およそ半分となっている。
山陰は風土記にも記される鉄の産地であった。島根県雲南市や奥出雲町は古来の製鉄法「たたら」で江戸時代には分業も進み賑わっていた。中国山地をはさんだ山陽地方では、高度成長期に近代製鉄で都市化の道を歩んだ。
時代に応じて、それぞれの風景は移り変わる。奇しくも両地域を訪れていた私は「各地の各世代が背負うもの」を景色から見出そうと試みた。ありふれた眺めに潜む歴史背景を、地元に住む方々の力を借りて、私はのぞき込む。
一方、山陽地方は高度成長期に工場が次々と瀬戸内海沿岸へ誘致された。広島県福山市には世界最大規模となる日本鋼管(現JFEスチール)の製鉄所が1960年代に稼働。技術者や労働者たちが関東や西日本の各地から集まった。1962年に同市が出した報告書によると、1960年と70年を比較し、人口2倍、工業生産額10倍、所得6倍に上がると算出した。
こうして見ると、成長とは何かを得て何かを失うことなのかもしれない。予測も簡単ではない。ましてや不可逆的に変化が速く不確実性の高いこの現代に、未来をうらなう方法は存在しうるのか?
「この世界は、合理的な人の頭の中にある確からしさを考慮した、確率の微積分に従っている」
(物理学者 J・C・マクスウェル)
と彼は言ったが、過疎地が抱える問題の解決策を探るために、人口や年齢構成を推計するだけでは不十分だろう。地域が活性化する方法を住民が自ら模索している。どこかでこの問題が解決できたとしても、決してどこでも通用する公式にはならない。いつの時代も、より良くなることを求め試行錯誤した積み重ねにより、地域は様々に形を表す連続体であるのだから。
その意味で、風景とは過去の人々の希望や願望の帰結である。この背景を踏まえて、それぞれの地域の未来にはどんな風景が広がっていくのか。また、目の前の光景をいつか振り返ったとき、語られる思い出は暗いものなのか、それとも明るいものなのか。それは誰にもわからない。
過疎地の抱える課題は、単に人口が減って生産活動が滞る以外にも、住民に重くのしかかる獣害がある。
「共存なんてとんでもない話だが。そげなもん、戦いよ。戦い」と仁多米を育てる農家が語気を強める。それもそうだ。丹精込めて育てた稲を、猪が収穫直前の晩に現れて無慈悲に喰い荒らした田んぼを見ると、私ですら憎しみが込み上げる。
さらには手のつけられない空き家の果樹が獣を呼び寄せる。田畑も放棄されると集落が山に侵食を受けるので、残された者で管理するので手一杯だ。
庭先に暗視カメラを据えさせてもらうと、獣の写真が山のように撮れた。子どもを連れた猪が夜な夜な柿を貪り、狸、狐、イタチ、野兎もお邪魔する。人間の住まいは獣家族のそれと置き換わっている。
この地で撮影を続けていると自然は人間が完全に操れるものではなく、意思疎通の対象という認識がしっくりくる。たゆまぬ季節の移り変わりは恩恵を与え、悲しいことに災難と表裏一体でもある。この風土が山の幸をもたらせば、獣害も引き起こす。地元猟友会の話を聞けば、島根の山はドングリが豊富なため猪がよく育ち、肉は良質で高く買い取られるそうだ。
島根は風が強いせいか、雲が訪れては去っていく。歌に詠まれる「八雲たつ」とはまさにこのこと。雨も降って止んでを繰り返し、虹が30分おきに現れる日もある。風と土とが常に摩擦することで変化をもたらし、生物の多様性や復元力を確かなものとする。そして私たちの生き方や考え方をも形作っている。
このまなざしを日常生活に向けてみる。土を守る力と見なせば、風は変える力を表すだろう。老いと若き、先住者と移住者、双方の論理をわかり合うまで擦れて生まれる力が、地域の課題を解く時がある。
少子高齢化に苛まれる島根の山間部では、しかしまさに、そんなたくましい人たちにたくさん出会える。大自然に比べれば、また都市に比べても、密やかなものかもしれない。でも確実に、豊かな営みがそこにはある。
写真・文章・コーディング 紀成道
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